日本の覚醒(4)【素晴らしき日本】昭和天皇の巡幸2

前稿「【素晴らしき日本】昭和天皇の巡幸」の続きです。

貞明皇太后前稿の最後の動画「マッカーサーに屈しなかった天皇陛下、その気力を支えた最後の砦とは?」の中の「貞明皇太后の前でないた昭和天皇」ですが、同皇太后が天皇を次のように諌めます。

「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」

でもこれは言いがかりで(言葉は悪いが)、これも前稿で示した「マッカーサーの感想」の下記が正しい。

「私は大きい感動にゆさぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動かした」

2.天皇に大東亜戦争の責任はない

先の大戦は天皇どころか、日本人の誰にも責任はなく、絶対的に避けられなかった戦争であり、必敗の戦争、これは当時の日本支配層も理解していた。だって当時の地球支配者(アメリカの支配者、イルミナティの首領ロスチャイルド)が絶対的力を保有し、日本を叩き潰し、滅ぼそうと戦争を仕掛けてきたからである。

よく、正しい選択をすれば戦争は避けられた、あるいは正しい戦法を用いれば勝てたという論者がいるが、よく調べもせず喋っていて不可能なのだ。「小説太平洋戦争」(山岡荘八著、2012年、講談社文庫)をお読みください。一つの会戦で日本兵が100人戦死に対し米兵は数人の戦死である。日本兵は単発銃が標準、米兵は自動小銃が標準装備。日本の飛行場設営はシャベルとツルハシだが、米軍はブルドーザーである。

日米の工業レベルが違い過ぎた。例えば、当時アメリカにあった「工作機械の製造」、大規模鋼板製造設備等は日本には皆無。当時乗用車は日本は製造不能。米国のT型フォードの生産が1909年(大東亜戦争終戦は1945年)、対する日本のトヨペットクラウン発売は1955年、約50年の差である。

ところが戦後70年たってみると、面白いことに、当時アメリカが優位であった全ての物が日本に集中、アメリカや欧州には無くなったのである(笑い)。

ロスチャイルドの野望はまだ達成されていない、日本が存続しているからだ。これには天皇の力と国民の努力であるが、彼らからの攻勢は今だ、気象兵器による攻撃、傀儡政府を使った日本破壊工作、等として続いている。

以下本題に入ります。

3.大巡幸

これから昭和天皇は、戦争で家族を失い、敗戦のショック、米軍の徹底的な爆撃で住む家を焼かれ、食べるものも事欠き、生きる目標を失い、極貧にあった国民の現地を訪れ、お言葉を掛け、彼らを慰め、復興の勇気を与えるため、述べ3万3千キロ、8年半、大規模で長期の巡幸を決意された。

これは恐らく開闢以来始めて、世界的に見ても稀有、それほど当時の日本は危機にあり、これも恐らく開闢以来最大の危機に直面していた。だから陛下は身を呈し民衆の中に飛び込んで行かれたのである。まあ、日本という稀有の国家の生き様ではあるが。

以後は「幸食研究所ブログ」さんの記事のコピーです。

『昭和天皇大巡幸』①

昭和20年8月15日、天皇陛下の玉音放送により事実上の敗戦を迎えた日本。
  空襲1

その終戦の詔書を読み上げた陛下は、自身も身を切られるような思いにいたと言う。実際陛下ご自身による割腹自刃は三度あった。

~帝都大空襲~(東京大空襲)及び~日本各地で繰り返された無差別都市絨毯爆撃~(日本本土空襲)」さんの写真集からの抜粋です。

昭和20年3月10日 浅草 一夜にして瓦礫の町と化した東京…浅草
昭和20年3月10日 浅草一夜にして瓦礫の町と化した東京…浅草
花川戸…路上に横たわる焼死体 昭和20年5月25日 港区青山の惨状
花川戸…路上に横たわる焼死体昭和20年5月25日 港区青山の惨状

しかし昭和20年10月、宮内府次長加藤進氏に次のように指示された。

「この戦争により先祖からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う。このことをどうしても早い時期に行いたいと思う。ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだろうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまったく考えることなくやってほしい。宮内官はその志を達するよう全力を挙げて計画し実行してほしい」

ここから昭和21年2月より、苦節8年にも及ぶ昭和天皇大巡幸が始まった。

日本列島が焼き尽くされる中、ただただ生きることすら困難な時代において、日本は戦後急速な復興を遂げ、世界に先駆けるほどの先進国入りを果たす。
国民を慰問される陛下

これほどの勇気と愛に溢れる民族はあっただろうか?

これほど優秀で忍耐強い国はこの日本しか存在しない。

その原動力となった大きな理由は、日本人の気質はもちろんの事、この昭和天皇大巡幸による影響が大きかった。

「ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。
ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、ということをね。 それが生きた民主主義の教育というものだよ。」

これが大巡幸が始まる時のGHQ高官達の本音であり、天皇家の自然な失墜を狙った思惑だった。

一部の日本の共産主義者や反日勢力は過激なテロを起こす気運もあり、その懸念は大きかった。宮内庁関係者もそれを極度に恐れたという。

しかし日本人はそうではなかった。

それどころか石一つ投げられる事無く、世界中が奇跡と呼ぶ大巡幸がここから始まる。

昭和21年2月19日の最初のご訪問の地は、昭和電工・川崎工場であった。食糧増産に必要な化学肥料の硫安を生産していたが、空襲で70%の設備が破壊され、社員は必死で復旧に努めていた。
一列に並んだ工員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」、「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれた。感極まって泣いているものも多かった。案内していた森社長は、天皇が身近な質問ばかりされるので、宮中で安楽な生活をされていたら、「こんなことは口だけでは言えまい」と急に深い親しみを感 じた。

二度目の御巡幸は、2月28日、都内をまわられた。大空襲で一面、焼け野原である。新宿では、昭和天皇の行幸を知った群衆が待ちかまえ、自然に「天皇陛下、万歳」の声が巻き起こった。昭和天皇が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の制止も振り切って、車道にまでなだれこんだ。これ以降、巡幸される先々で、このような光景が繰り返された。
天皇陛下万歳

時を遡る事数ヶ月、昭和天皇とGHQマッカーサー元帥の会見において、陛下はこのように語っていた。

「一切の責任はこの私にあります。しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」

それに対し、マッカーサーは8000万人に対し、1億人分の食料をアメリカ本国に申請した。

陛下は、疲弊しきった国民を心配するに当たり、何よりもまず食料に困る事をご心配なされていた。

何をもってもそこが原点だとお考えでいた。

ここから始まる大巡幸も、その思いは狂気の執念と呼ぶべきお覚悟があったのです。

(つづく)

記事は以上で、続きます。

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 このブログは天皇を君主とする日本帝国の再興(政体を天皇制へ戻す)を提案しています。
 現体制の日本に未来がなく、新「日本帝国」で真の民主主義国家として生まれ変わり、ミロク社会を実現させる。
 そして、西洋文明で破壊された地球を救う為に立ち上り、全世界から武器を撲滅して戦争をなくし、万民が平等のミロク地球社会を築く努力をすべきである。

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愛知県在住、昭和15年生れ、本名:野村宏、愛知工業高校機械科卒、某エネルギー企業入社、万年平社員で定年退職、好きな分野は文明論、世界統治組織に興味を抱き陰謀論にトライ、【制作・研究等での主な参考書籍】馬野周二氏著書、太田龍氏著書、田村珠芳氏著書、ユダヤ・ロスチャイルド世界冷酷支配年表(アンドリュー・ヒッチコック著)、ヤコブ・モルガン氏著書、増田悦佐氏著書、竹内文書関係、エイリアンインタビュー(マチルダ・オードネル・マックエルロイによるインタビューと手記)。Twitter「明日に向かって」

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